こんにちは!
おみやげライター嶋田コータロー(@SRokota)です。
「おみやげと鉄道(鈴木勇一郎著)」という本を読んでの感想を数回に分けて書こうと思います。
図書館で借りて一度読み、その後購入して読み、現在三度目に突入。
この本は、ある種画期的な本ではないかと思いました。
お土産と近代の産業の発展を絡めて書かれているからです。単なるお土産品の歴史を扱っているわけじゃないんです。
と、いきなり核心にいくまえに、今回は「おみやげと鉄道」がどんな本か?わたしが「お土産は日本独特の文化なのか?」と感じた体験を書きます。
どんな本なの?
この本を読めば、各地の名物が近代産業の発達とともにお土産化(いわゆるお土産品)していくさまがわかります。
具体的にいいますと、「鉄道・軍隊・名産品の博覧会・飛行機・高速」の出現により、お土産が拡散されていったということ。
本にも書かれていますが、地元の名物がただそれだけではお土産化するわけではなく、そこに強力な拡散装置が必要となります。
それを担ったのが本のタイトルにある「鉄道」なのです。
とりわけ鉄道の完成によってお土産が一気に広がることとなりましたので、それで鉄道をタイトルにつけたのかなと思いました。(知りませんけど)
まあこんな感じの本です。
お土産は日本独特の文化なのか?
この本では本論に入るまえに、まずお土産の起源とお土産が日本独特のものである点にふれています。
気になる一節がありましたので引用します。
日本の贈答文化を研究したキャサリン・ルップも、西洋のsouvenirが旅に出かけた当人の思い出用という色彩が濃く、そのため多くは腐ることのない非食品であるのに対し、日本の「おみやげ」は同行しなかった人向けのものであり、たいていは食品ということを指摘している。つまり、乱暴に整理すると、日本のおみやげは自らの旅の証を他人に配るもの、西洋のスーベニアは自分のためのメモリアルという区分ができよう。
「おみやげと鉄道(鈴木勇一郎)より」
わたしはモンゴルに5年間住んでいました。年に一度の帰省のたびに首都ウランバートルのお土産屋へ買い物に行ったものです。
お土産に関わるようになってはじめて、日本とモンゴルでは「お土産」に対する考えが違うんだろうなと感じています。
モンゴルのお土産屋の看板には「souvenir(スーベニア)」と英語で書かれています。お土産屋には違いないのですが、この言葉が伝えるところは「旅をした本人の思いで」というニュアンス。
なので、どこのお土産屋にも置いてあるのは民芸品などの食品ではないものです。モンゴル旅行をした当人が自分の記念として買う類のもの。
食品で土産品になるものといえば、主にスーパーや市場で買える岩塩・乳製品・ウォッカぐらい。ウランバートルばななやウランバートルサブレのようなものはありません。
そういった様子をみていると、地域ごとに由来する食べ物をお土産品とするという考えがないのではないかと感じます。
ではなぜ日本と海外でそのような違いがあるのか。
わたしはそこに日本人という人間の気質。根底にある食に対する見方も関係しているのではないかと思います。突き詰めていけば、そのあたりにもたどり着くのではないかと(日本人って食いしん坊やなぁと思うのはわたしだけか・・・)
これを書き出したら違う方向にいくのでここではやめておきます。
ちょっとそれますが、そもそもモンゴル語には、日本で言う「お土産」という言葉自体がありません。
あるのは「бэлэг(贈り物)」という言葉。その土地で産まれた産物(土産)という意味を一言で伝える言葉がないのです。
後になって気づいたことですが、こういった点からも日本とモンゴルのお土産文化には違いがあるんだろうなと思います。
いまふうつに見られるお土産文化。これはやはり日本独特のものなのでしょうか。海外の他の国についても知りたいですね。
▼モンゴルのお土産。フェルト製品のお土産が多い。
モンゴルのお土産について書いた記事はこちらから。
本を読んだ感想続きます
今後も不定期で本の感想や気づいたことなど書いていこうと思います。
今回は以上です。
コメント